富岡敬明
富岡敬明について_その1

富岡敬明が生まれたのは佐賀県の小城市。
その佐賀県と県令として赴任した熊本県の方言で「異風者(いしゅうもん)」という言葉がある。
これは文字通り「変わり者」という意味であるが、
この言葉には「変わり者だけど憎めない人」という意味も込められている。
敬明は生涯4人の女性と結婚をし、21人の子どもをもうけた。
現存する写真の表情を見てみると、強面で口はいつもヘの字に結んでいる。
その表情からはけして「愛らしい」という言葉は想像できないが、
その外見とは裏腹に敬明は女性や子どもにとても優しかったと言われている。
長身の敬明の豪快さと心優しい面に多くの女性が惹かれたのかもしれない。

富岡敬明について_その2

富岡敬明は1822年11月8日、佐賀県小城藩の番頭神代次兵衛利温の次男として生まれた。
幼名は左次郎。子どもの頃はとてもわんぱくで、柿を取ろうとして木から落ちたり、
蜂の巣に火をつけて山家事になりかけたりと多くの逸話が残っている。
富岡家の養子になったのは富岡家の娘津和と結婚したためである。津和のほうが2つ年上であった。
結婚してからは、小城藩の藩主の長男直亮の側役となり、
直亮が藩主となると江戸へと同行し、滞在することが多くなった。
任務として神田橋御門に詰めるという公役を命じられていたが、
吉原の遊廓へ泊まっていたという話が残っている。
その中でもお酒にまつわる失敗談は多く残っている。

富岡敬明について_その3

富岡敬明はお酒が大好き、美味しい物には目がないという人物。
こんな話が残っている。出身の佐賀は栗の産地としても有名。
もちろん敬明は栗にも目がなかったのだが、ある日、客人が来たにもかかわらずなかなか部屋から出てこない。
部屋に隠って敬明は好物の栗を食べていたという。とてもマイペースな敬明の性格が表れている。
その体格からもわかるようにお酒もどうやら豪快に飲んでいたらしい。
これは有名な話だが、江戸へ上がってきた敬明がお酒で大失躰をした。
酔った挙句に前後不覚となり、路上で眠りこんでしまった。
その間に身ぐるみを剥がされ、刀までも盗まれてしまった。武士の命とも言うべき刀を全て盗まれてしまった敬明。
その姿を事もあろう事か番所役人に見られてしまった。
これには小城藩主の直亮もかばうことが出来ず、結局敬明は北の寒村に飛ばされた。
当時、お酒というと清酒(日本酒)をさすことが多かったが、
敬明はどんなお酒を好んで飲んでいたのか、とても気になる。

富岡敬明について_その4

敬明が山梨県へ赴任したのは50歳の時だった。
現在では50代はまだまだ若いが、その当時はそろそろ隠居を考える役人も多かった時代だが、
敬明の活躍が全てが晩年。
その大きな理由の一つに、自分の上司だった直亮の死後に企てた御蔵方、太田蔵人の暗殺未遂事件がある。
直亮の死後、世継ぎがなく、本藩の鍋島直正の次男を迎えるが、
あまりにも幼少のため実権は隠居をしていた直亮の父、直●が握ることになる。
そこにつけ込んだのが、御蔵方の太田蔵人だった。
藩の若者たちは太田蔵人のやり方に反発するものが多く、敬明の所へ集まっては、太田蔵人の暗殺を企てていた。
結局、暗殺は未遂で終わったが、敬明は自首をし、死罰と決まるが鍋島直正によって助けられ、
終身禁固の身となり、牢獄生活を送った。
敬明が獄を解かれたのは、明治維新の恩赦によるもので、その時すでに47歳となっていた。
江戸という1つの時代が終わり、明治という新しい風は吹きはじめた時代、
ようやく敬明の役人としての人生が始まる。

Copyright © 2008 富岡敬明研究会 All rights reserved.