富岡敬明トップページ
富岡敬明とは
富岡敬明の偉業
富岡敬明の趣味
富岡敬明の資料
englishpage
文政5年(1822年)
11月8日
小城藩番頭神代次兵衛利温の次男として誕生。幼名左次郎
天保3年(1833年)
3月3日
小城藩士富岡惣八の養子となる
天保6年(1836年)
?
興譲館の寮生となる
天保7年(1837年)
?
名を九郎左衛門耿介と改める
天保9年(1839年)
12月
惣八の長女津和(19才)を妻とする
天保13年(1843年)
10月
若殿三平(小城藩第10代藩主直亮)の側役となる
天保14年(1844年)
7月
直亮の出府御供
天保14年(1844年)
8月
江戸藩邸の御留守居介役を命ぜられる
弘化2年(1846年)
8月
江戸藩邸の御留守居添役を命ぜられる
弘化3年(1847年)
?
直亮とともに小城へ帰る
弘化4年(1848年)
2月
西丸聞番差次を命ぜられる
弘化5年(1849年)
3月5日
藩主直亮参観に従い江戸へ
弘化6年(1850年)
4月26日
神田橋御門番頭に任ぜられる
安政5年(1858年)
12月
総目附兼文武方指南役となる
安政6年(1859年)
1月
「大酒失躰之挙動」のため「遠處」処分を受ける
安政6年(1859年)
3月26日
小城藩北端の大野村へ山内目代(代官)として赴任(格下げ)
元治1年(1864年)
3月
山内目代を罷免となる
元治1年(1864年)
5月7日
太田蔵人刃傷事件(小城藩騒動)が起こる
元治1年(1864年)
8月23日
事件の主謀者として自主する
慶応3年(1867年)
11月27日
刑を死刑から終身禁錮刑に減じられ、家名断絶、家屋敷田地一切没収される
慶応3年(1867年)
11月28日
松浦郡山代郷久原村の濫倉に投獄される(現在の伊万里市山代町久原1629番地)
明治2年(1869年)
3月4日
赦免となる
明治2年(1869年)
4月25日
佐賀本藩弁務となる
明治2年(1869年)
8月
諫早郡令となる
明治2年(1869年)
10月15日
神崎西山内郡令となる。軍事局係も兼任
明治2年(1869年)
11月12日
「雇中六等」官に昇進し、物産局係を命ぜられる
明治3年(1870年)
3月14日
上佐賀郡令を拝命
明治3年(1870年)
6月
小城富岡家の再建の沙汰をうけ長男重明を士族として25石を給せられる
明治3年(1870年)
9月25日
佐賀本藩の永代藩士となり、13石6斗を賜る「大属」となり少参事試補に命ぜられ名を「耿介」とする
明治3年(1870年)
11月28日
松浦郡山代郷久原村の濫倉に投獄される(現在の伊万里市山代町久原1629番地)
明治4年(1871年)
3月17日
佐賀藩権大参事に任命される
明治4年(1871年)
7月9日
廃藩置県が断行される
明治4年(1871年)
11月14日
伊万里県権参事に任ぜられる
明治5年(1872年)
3月5日
山梨県権参事に任ぜられる
明治5年(1872年)
6月
租税大小切安石代廃止により大小切騒動勃発(一棲)
明治5年(1872年)
秋
1)茶道峠開懇が始められ、敬明も退庁後監督や指導にあたる
2)善光寺方面からの街道や北原地域の開懇を始める
明治6年(1873年)
4月
人権擁護のため、知己である司法卿江藤新平宛に上申
明治6年(1873年)
5月
日野原開墾を始める
明治6年(1873年)
6月18日
1)堀口米七の娘こと(第2夫人)との間に男子又雄をもうけるが1年あまりで死亡
2)県令藤村紫朗とともに植桑による養蚕に尽力する。その他勧業製糸工場・勧業試験所・県庁・ 警察・病院・郡役所・小学校などの建築(藤村式建築)にも努める
明治6年(1873年)
11月10日
正七位に叙せられる
明治6年(1873年)
11月29日
参事に昇進
明治7年(1874年)
2月18日
従6位に叙せられた
明治8年(1875年)
9月5日
「任名東県権令兼五等判事」を命ぜられる(現在の徳島県)
明治8年(1875年)
10月14日
五等判事の兼職を免ぜられ、正六位に叙せられる
明治9年(1876年)
8月
名東県が廃止され(高知・兵庫両県へ吸収)8月28日付で非職となる
明治9年(1876年)
11月20日
従五位に叙せられ、熊本県権令に任ぜられる
明治10年(1877年)
2月
西南ノ役勃発
薩摩軍来襲のため4月14日まで城内に籠城
明治10年(1877年)
5月
市街の整備、道路拡張工事に着手する
災害につき救助金として弐百円を献金する。
7月12日付で銀盃を下賜される
明治10年(1877年)
7月21日
300人の巡査募集
明治10年(1877年)
8月9日
警視出張所を高田原に移し、所々の分署を各地名を冠せた警察署とする
明治10年(1877年)
?
人吉区裁判所を再開、東京の第1回内国勧業博覧会へ各区長間より1名の代表を選出派遣する
明治10年(1877年)
12月13日
天皇に拝謁、14日に御陪食に預かり、15日には勲四等と年金百八十円を賜る
明治11年(1878年)
7月25日
県令となる
明治11年(1878年)
9月1日
県立医学校が創建
明治11年(1878年)
11月
県会議事堂が完成
明治12年(1879年)
1月
郡区制を決定する
明治12年(1879年)
3月
新県会議員42名が選出される
明治13年(1880年)
10月27日
百貫石港修築建言書が提出される
明治14年(1881年)
?
敬明は内務省の外人嘱託技師ムルダーの進言を入れ三角築港案を固めて山県内務卿へ稟請書を送る
明治16年(1883年)
3月
1)臨時県会において白木県議会議長、岩男俊貞副議長の協力のもと三角築港議案を決了する。
2)道路開鑿起工
明治16年(1883年)
5月
三角築港起工
明治16年(1883年)
7月13日
本妻津和死亡(於佐賀)
明治17年(1884年)
春・夏
5月洪水/7月河川氾濫と風害/8月暴風雨/9月風害
明治18年(1885年)
?
敬明は退庁後毎日のように緑川をわたり40キロにわたる道路や築港工事の監督などにあたる
明治18年(1885年)
春
佐賀県令鎌田景弼、佐々友房、白木為直、田尻彦太郎らと九州鉄道敷設を論議し始める
明治18年(1885年)
11月24日
勲三等に叙せられる
明治19年(1886年)
7月19日
知事となる
明治19年(1886年)
10月
従四位に叙せられる
明治20年(1887年)
6月
三角港完成8月開港
明治21年(1888年)
1月
第6師団と改称された鎮台の拡大に伴い県庁も千反畑白川沿いに移転する
明治22年(1889年)
11月
敬明は政府に請うて、米・麦・麦粉・石炭・硫黄など5品目について三角港を特別輸出港とした
明治24年(1891年)
4月9日
知事を非職となり、4月下旬8人の妻子を連れ山梨の里垣村へ発つ
明治24年(1891年)
9月末
1)恩給年額千二百十九円の証書を下附される
2)山梨県北巨摩の日野原の開墾神社参拝する
明治25年(1892年)
3月
勅選の貴族院議員を1年足らずで辞任、養蚕等を始める
明治26年(1893年)
?
大円川、高倉川の堤防作りのため、県当局にかけ合い、自ら現場の陣頭指揮をとる
明治27年(1894年)
1月
熊本において嘉悦信之、高木第四郎らにより敬明の碩徳碑建立の案が出される
明治29年(1896年)
5月
建碑(三角)の祝典に出席するため来熊。帰途生地の小城へ立寄る
明治32年(1899年)
夏
末子喜寿(女)をもうける。敬明78才(満77才)
明治32年(1899年)
9月5日
九州鉄道が際崎(現三角駅辺)まで進む
明治33年(1900年)
5月9日
熊本県知事徳久恒範、文部大臣・伯爵樺山資紀子爵品川弥二郎、元農商務相谷干城らの推薦により、敬明に男爵が授けられ華族となる
明治33年(1900年)
6月20日
正三位に叙せられる
明治34年(1901年)
夏
垂れ下がった上瞼の縫合手術をうける
明治34年(1901年)
9月
佐賀から熊本へと九州旅行をする
明治37年(1904年)
2月
露探すなわち露国スパイの嫌疑をかけられた望月小太郎の掩護をした敬明は、新聞により烈しい攻撃をうける
明治39年(1906年)
1月
徳富蘇峰が市川大門の青州文庫見学に訪れ敬明と再会
明治40年(1907年)
8月
山梨県下豪雨により田畑家屋人畜橋梁などに大災害を被る。村会議員であった敬明は防災・復旧のため寄附をするなど挺身する
明治42年(1909年)
2月28日
気管支炎から肺炎をおこし、88年の生涯を終える。従二位勲二等男爵であった