富岡敬明
富岡敬明の偉業 北杜市長坂町日野春地区の開墾

富岡敬明の偉業の一つとして山梨県で最も知られている事業の1つに
北杜市長坂町日野春地区の開墾ある。
現在、JR日野春駅近くに「富岡」という地名が残っているが、
これは敬明の名前から取ったものだと言われている。
当時、敬明は土肥実匡の後に山梨県令に就いた藤村紫朗の下で、
横浜や東京を結ぶ道路開削の工事を進めていた。
「日野春」という名前も藤村と敬明が付けたものだと言われている。
熊本県出身の藤村、佐賀県出身の敬明。
この熊本や佐賀では、「原」のことを「はる」と発音する。
この事から日野っ原と呼ばれた原野が「日野春」と名付けられた。
日野春は、山梨県でも北に位置する寒冷地で、水も乏しく、
この開墾にはかなりの時間がかかった。
敬明は退庁後、自ら馬で日野春地区へ向かい、入植者を激励したと言う。
そのため、地元では敬明のことを「敬明さん、敬明さん」と呼び、親しまれていた。
今でも甲府から日野春地区までは車で30分以上かかる。当時は馬。
毎日のように通っていた敬明の行動はとても真似出来ることではない。
その後、観農業試験場が完成し、養蚕が盛んになった。
荒れ果てた日野っ原は、やがて農業が出来る土地へと生まれ変わった。

富岡敬明の偉業 熊本県三角港築港

55歳の時、敬明は熊本県の県権令として赴任した。
当時、熊本県では神風連の変により県令の安岡良亮が殺害されるという事件が起こった直後だった。
以後、14年5ケ月もの長い間、熊本県令として采配をふるった敬明は「土木知事」と言われるほど、
道路、鉄道、港湾などの整備に力を注いだ。
その中でもひときわ力を入れたのが三角港の築港。
山梨県での日野春開墾と同じく、退庁後、毎日工事現場に馬で駆け付け、人々を励ましていたという。
三角港築港には、多くの囚人の力があった。
築港の計画から施工までの指導にあたったのがオランダ人のムルドルだった。
最初、港は熊本市内に造られる予定だった。
しかし、ムルドルが土地を調査した所、三角が最適な場所だと判断した。
すでに議会では熊本市内に…と決まっていたが、敬明はムルドルの言い分を信じ、
三角に港を造ることを決心したと言われている。
明治20年に3年もの歳月をかけて完成した三角港は、現在では日本最古の港だと言われている。
2007年には120周年を迎え、宇城市で盛大なセレモニーが行われた。
現在、三角西港近くの高台には三角の海を見つめるように敬明の碑が建っている。
近くには、敬明の功績を讃えた頌徳碑が建っている。
また、港の築港を支えた囚人たちのお墓も町の人々によって守られている。

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